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大日乃光






大日乃光

2016年12月28日大日乃光第2163号
全国の信者さんと有縁の人々で守り伝える蓮華院信仰

御霊導を未来へと紡ぐ多宝塔の建立
 
新年、明けましておめでとうございます。
昨年は地震のために、こちら熊本と大分、そして鳥取でも大きな被害がありました。本誌二、三面で宗務長がお伝えしている様に、地元熊本の被災者には様々な支援活動を行いました。
 
そんな中でも六月大祭の六月十三日には多宝塔の「地鎮祭」を、そして九月二十三日には「鎮壇の儀」を、十二月十三日には「相輪納めの儀」を全国からの熱心な信者の皆さんの参列の中で厳粛に修しました。
 
この内の「地鎮祭」と「鎮壇の儀」は、私が貫主として全体の法儀を執行しつつも、私に代わって直接作法を修したのは、次の世代を担って行く院代の啓照でありました。これは、「次世代に引き継ぎながら多宝塔を建立すべし」との、御本尊皇円大菩薩様の御霊告によるものでありました。
 
思えば昭和四十三年の「皇円大菩薩様御入定八百年大遠忌」を機に、開山上人様の時代に始まった奥之院開創の大事業は、開山上人様から中興二世の真如大僧正様に引き継がれて完成しました。また本院に二十年前に落慶した「平成五重塔」は、真如大僧正様の発願で始まり、私の時代に完成しました。
 
その後、平成二十三年に蓮華院中興の総決算として南大門を再建し、中興への道は達成されたのです。それ以降は、新たな時代に向かって切り開くべく歩み続ける、一つの大きな転機を象徴するのが、今まさに建立されつつある多宝塔なのであります。これから未来に向かって、蓮華院の進むべき道を照らし続ける事でしょう。
 
八千枚護摩行中の「神分祈願」
 
本稿はまだ八千枚護摩行の前行の中で書いておりますので、行中にこれから授かるであろう新たな方針などは、十三日の初まいりの折りにお伝え出来ると思います。

一方で新たな方向を探る時、過去の歩みや歴史は未来を指し示す大切な指針の一つでもあります。そこで、昨年の年末に気付いた嬉しい出来事を少しお伝え致します。
 
真言宗では正月の修正会(しゅしょうえ)などの法会の時、導師(当山の場合は歴代貫主)が修する作法を「修法」(しゅほう)と言います。八千枚護摩行においても「口に真言を唱え、手には印を結び、心に御本尊様を瞑想する」いわゆる三密の行としての修法を修します。
 
昨年の八千枚護摩行は二十五回目という節目の修行でしたから、特に最初の方で今回の行に向けた決意や願いを込めた「表白」(ひょうはく)を唱えました。その後に神様に向かって唱える「神分祈願」という部分が続きます。
 
真言密教におけるほとんど全ての修法には、この「神分祈願」が入っています。佛様や菩薩様だけではなく、日本古来の神様や天地自然の神々にも併せて祈るのです。この神様に祈る作法が神分祈願、略して「神分」と呼ばれる部分です。
 
〝乙宮さん〟は蓮華院の鎮守の神様
 
私は本院の境内の西北の角にある「乙宮社」に祀られている神様が、当山の昔からの鎮守の神様であったに違いないと確信していますので、この「神分」の中で「当山鎮守 乙護法善神」と唱えてきました。
 
当山は昭和初期に中興されるまで、約三百五十年の間、廃絶していました。その間も、中興後の現在でも地元の有志の方々が「講」を組織し、その講員の家々の持ち回りで、この「乙宮社」を守り続けて頂いたのです。この他にも旧蓮華院に縁の深い「講」には、「関白塔組合」と「お釈迦さん組合」があります。
 
母が元気な頃は、専ら母がこの「乙宮さん」の講に参加していました。その後、家内が引き継いでいましたが、現在は宗務長が引き継いでいます。しかし昨年(平成二十八年十二月)は、その持ち回りが蓮華院の担当になっていましたので、今回は私と宗務長の二人で参加し、他の講員の皆さんをお接待しました。その日は例年、十二月一日と決まっています。
 
佐賀の背振山から始まった乙護法善神
 
先にも述べたように、私は以前からこの乙宮社が当山の鎮守社であると確信していたのですが、改めていま一度、少し調べてみました。
 
すると、この乙宮に祀られている「乙護法善神」を初めて祀った場所が佐賀県の背振山の中腹にある霊仙寺(天台宗)の「乙護法堂」である事。同じく背振山の北側の福岡県内の真言宗の雷山千如寺でも、この乙護法善神が祀られている事が分かりました。時代的には平安時代の中期頃と思われます。
 
また当山の総本山、西大寺を中興された興正菩薩叡尊上人、そして関東で西大寺流を広めた忍性菩薩は、お二人とも大切な事を決断される時、春日明神や鹿島明神のご宣託(神様からの啓示)を受けて大きな方針を決定した事が一度や二度ではなかった事が伝記に残されています。
 
この様に平安、鎌倉時代から江戸時代まで、日本各地で様々な神様がお寺の境内で祀られて来ました。それとは逆に、佛教の広がりに伴って日本各地に広まった神様も、いくつも見られます。
 
乙護法善神は、伝説によればインドの王子がその前身であり、先の背振山が修験道(密教的な佛教が古代神道と影響し合って出来た山岳宗教)の一大拠点であった事から、ここから始まり、阿蘇や兵庫県の書写山圓教寺にも伝わっています。(詳しく調べればもっと多方面で祀られている事でしょう。)
 
この童子の姿の護法神は、左手に独鈷杵(とっこしょ)を持つとされています。真言宗では護摩祈祷を行じる時、左手に三鈷杵を持って修する事を考え合わせると、乙護法善神は神様として祀られてはいるものの、その働きや持物から、密教に縁の深い神様である事は明白です。
 
背振山の興廃に表れた明治維新の光と影
 
私の親友が背振山の麓に生まれ、そこに長年住んでいますので、彼に背振山の修験道神の事を尋ねてみました。すると彼は地域興しやマチづくりに熱心なだけあって、歴史的な背景を詳しく教えてくれました。
 
背振山は明治以前は「背振千坊」と呼ばれ、千を超える坊(お坊さんの住居)が建ち並び、福岡県と大分県にまたがる英彦山と併せて九州における修験道の中心地の一つだったとのことでした。

彼自身が何代か遡れば、祖先は修験道の行者、つまり修験者であったのではないか?という自覚まで持っていました。続けて、「背振千坊は現在は見る影もなく、山頂にある中心的な祠はあまりにみじめな状況で…」という状態だそうです。
 
来年の平成三十年は、皇円大菩薩様の御入定八百五十年大遠忌の記念すべき年であります。そして同じくその年は、明治維新から百五十年にも当たります。明治維新は世界の歴史に大きな影響を与えた日本の輝かしい大転換点として、私達日本人が大切にしたい歴史です。
 
しかし一方で、光があれば影もあります。明治の時代は神佛分離令(神道と佛教を強制的に分ける命令)や修験禁止令(修験道や山岳信仰を禁止する命令)などの宗教政策、さらには廃佛毀釈運動など、当時の社会情勢が現在の私達の社会や心のあり方にどの様な影響を与えたのか、改めて考え直す必要性を強く感じております。乙護法善神の事を少し調べる中で、こんな事をしみじみと感じました。
 
地元の伝承から新たに判明した御霊験
 
いま一つ、乙護法善神について嬉しい伝承があります。それは、皇円大菩薩様の師である皇覚上人、そのまた師であった皇慶上人が、この乙護法善神を手下のように使って様々な霊験を現していたという事が分かりました。
 
皇円大菩薩様の霊的なお働きに直接繋がるかどうかは分かりませんが、嬉しい言い伝えです。約八百年前に建てられた旧蓮華院の境内で、現在まで乙護法善神を守り伝えて頂いた地元の方々に、改めて心から感謝の念を抱いております。

それと同時に、現在の当山を信仰しておられる全国の信者の皆さんが、当山をしっかりとした信心で支え続けて頂いている事を、改めて有り難く実感しております。
 
世代を超えて地域の良き伝統を守り伝えよう
 
明治以前の日本では、神様と佛様がさながら一心同体のように手を携えて人々と社会を支え合って頂きました。
 
これと同じように、いかに絶大で広大無辺な皇円大菩薩様のお救いのお力と言っても、地元の有縁の方々の長年の支えと伝統を守る心がなければ、開山上人様による中興は叶わなかったかもしれません。

伝統や言い伝えが完全に消えてしまえば、現在の蓮華院も、中興からさらに新たな歩みに踏み出す事も出来なかったかもしれません。
 
皆様も、それぞれの地元に伝わる良き伝統や行事を大切にして下さい。その上で、各家庭に伝わる良き習慣をよりよく活かして次の世代に引き継ぎ、新たな年の歩みを始めてまいりましょう。  合掌




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