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大日乃光






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2017年02月20日大日乃光第2167号
〝香煙絶ゆる事無き霊場〟への日々の精進こそ当山の目標

節分が終わり、こちら九州では厳しい寒さも少しずつ和らぎ、春の足音が気付かない内にヒタヒタと伝わってくる時節になりました。本誌二月十一日号で、私の青年時代の第一回目の衝撃的な宗教体験をお伝えしましたが、第二回目に体験した事をお伝えします。
 
一念発起で酷寒の水行
 
それは私が二十一歳の二月十一日の事でした。その二年前に高野山の専修学院での修行生活を通じて、僧侶として生きる決意をしたものの、いつの間にか自堕落な学生生活を送る日々になっていました。
 
「これではいけない」と一念発起して、その年の一月二十一日の「初大師」の日から二月十日までの二十一日間、高野山の奥之院を流れる玉川の水行場(すいぎょうば)で水行をする事にしました。
 
それはその当時、開山上人様が当山の奥之院開創に心血を注いでおられている事を当時の『大日新聞』を通じて読むにつれ、「せっかく僧侶になる決意をしたのに、こんな生活を送っていては駄目だ!!是信大僧正様も頑張っておられるのに申し訳ない!」と思ったからでした。
 
最初に水行を始める前に、開山上人様に、「これから二十一日間、水行をします。時間は夜七時から下宿を出発して、七時半頃からになります。宜しくお願いします」と電話でご報告し、「よし、分かった!!拝んでおく!!」との短いお言葉を頂いて、勇躍、水行場に向かいました。
 
夏にこの場で水行をした事は何度かありましたが、厳寒の中での水行は初めてでした。水が流れているので凍ってこそいませんが、周辺の氷を踏みしめ、気合を入れて肩まで水に浸かると、全身を針で刺されたような、冷たさを通り越して激痛を与える流水に、必死に印を結び、痛みに負けないように、胆の底から大きな声を絞り出しながら、『般若心経』三巻、水天の真言、御宝号などを一心不乱に唱え続けること数分…。
 
水から上がって元の衣に着替えた後、不動堂の回り廊下に脱いでおいたフンドシは、完全に凍っていました。骨の髄まで凍えきった身体は、全身がガタガタと激しく震え、歯の根も合わない程の寒さに耐えながら、約二キロの暗い参道を帰って行きました。
 
あまりの厳しさに、二日目には「何でこんな約束をしてしまったのだろう…」と後悔の念のままに水行場へ向かいました。衣を脱いで水に入る直前は、「またあの苦しみを味わうのか!」と一瞬たじろぎましたが、何とか意を決して水に入りました。
 
大いなるお力に守られた修行
 
三日目からは「こんなに軟弱では駄目だ!」と思い直して、併せて断食を始める事にしました。それから四日目、五日目と、全身を針で刺されるような痛みに加えて、後頭部にズキンズキンとくる激しい痛みに襲われました。
 
断食を始めて三日目に、開山上人様に電話で相談してみました。すると、「水行中に断食はするな!命が危うくなる!まだ三日目の断食だから、お粥から復食せよ!」とのご指導を頂きました。

その夜からは、お粥を食べてから水行に向かいました。三日くらいで通常食に戻したら頭の痛みは完全になくなり、何とか水行を続ける事が出来ました。十日ぐらい経った頃に大雪となり、夜には奥之院の石畳の参道がガチガチに凍り、しかも電線まで切れていたので、完全な闇夜の中の水行となりました。
 
その前から、足袋を履いて雪道の参道を往復すると、体温で足袋が濡れて足が凍傷になりかけたので足袋を脱ぎ、雪駄を履くだけにしていました。そんな中でも一度も雪道で滑ったり転んだ事もなく、暗い中でも道に迷う事なく、淡々と水行の日々を重ねて行きました。
 
驕りの心を戒められた問答
 
そんな中、翌日で結願となる二月九日夜、水行を終えた後で何となく、専修学院時代の同級生のいる行法師(奥之院で日々弘法大師様に食事をお供えしたり、参詣者のために護摩を焚くなどの僧侶)の部屋を訪ねました。
 
すると、その部屋には三人の行法師の方々が居られました。その中のお一人が、「随分熱心に水行に励んでいるけど、貴僧にとって、お大師様(弘法大師様の事)のお言葉の、どの言葉を座右の銘にしていますか?」と質問されたのです。
 
若気の至りとでも申しましょうか、私は間髪を入れず、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(この宇宙が無くなってしまい、苦しみや悩みを持つ人々が居なくなってしまい、安楽な世界や覚りさえもなくなってしまわない限り、私の願いは終わらない)とのすごい言葉を言ってしまいました。
 
また別の方の「何のために、こんなにも熱心に水行をしているのですか?」との問いに、私は、「うちの寺は信者寺で、祈祷寺です。多くの信者さん達の期待に応えたいと思っての事です」と答えました。
 
すると、その方は、「信者さんの期待に応えるというよりも、信者さんを悲しませたくない!という言葉の方を聞きたかったですね」と言われたのです。その時、私は自分の中にある奢りの心を見事に見透かされ、もっと無心に虚心に行じなければ行の意味が無い!と痛烈に思い知らされたのでした。
 
また別の方は、「結願の前日に行の成果として、心中に大きな気付きを頂く事がよくあるものです」 と淡々と言われたのでした。「そうだったのか!私は自分が水行している!自分が水の中に入って唱えている!と、今までは『オレが!オレが!』の我慾で水行をしてきた。明日の最後の水行は水の流れと一体になるような気持ちで行じさせて頂こう」
と心に大きく響き、感じるものを得たように思いました。
 
水行結願後に至福の宗教体験
 
そしていよいよ二十一日目の、最後の水行の日が来ました。気負いのない思いと爽やかな気持ちで通り慣れた参道を進み、水行場に着きました。その後、いつものように水行を終えると、二十一日間道場を使わせて頂いた御礼と感謝の思いで、お大師様の御霊廟の前に一晩座ってお参りすることにしました。その時、これまで二十一日間そうしていた様に、無明の橋のたもとに履物を揃えて裸足でお参りしました。
 
後で知った事ですが、一緒に下宿していた弟の光佑(現在の宗務長)は夜遅くまで帰って来ない私を心配して水行場まで見に来てくれたそうです。その時、履物が揃えて脱いであったので、河に流されてしまったのかと大そう心配したそうです。今思えば悪い事をしたものです。
 
さて弘法大師様の御廟の前で座っていると、夜の十時にも十二時にも、二時にも四時にもどなたかが代わる代わるお参りされて、お香と灯明を供えられるので、ついに朝の五時になっても灯明の光とお香の煙が途絶える事がありません。
 
眼前のその光景に接し、まさに「香煙絶ゆる事なし」を実体験として知ったのです。弘法大師信仰の凄さと素晴らしさを、しみじみと見せて頂いたのでした。その後、御霊廟を守るように建てられている燈籠堂で、先夜の行法師の皆さんと一緒に朝の勤行を勤めて帰路に着きました。
 
その時、昨夜まで夜の暗い中で行じさせて頂いた水行場を、久しぶりに明るい中で拝した時、その流れは地獄まで見えるのではないかと見紛うばかりに透明な水を湛えていました。「よくもこんないい加減で、不遜な心根の私を受け入れて頂いた…」という思いが湧き出した瞬間、二年前のあの時と同じような感動と共に、止め処なく涙が溢れ出して胸元を濡らしていきました。
 
帰り道は深い霧に覆われ、そこに昇り始めた朝日の光で全身が白いベールに包まれました。日輪が木漏れ日となって私を包み、周りの木々や石畳の石からも「よくやり遂げたね!良かったねー」と祝福してくれているように感じながらの、至福の中での帰り道でした。
 
日々の修行と信心で歩む〝蓮華院霊場〟への道
 
その二年後には高野山大学を卒業して、蓮華院に帰ってきました。その後、三年間ほどは奥之院建立のための下働きに汗を流しました。まずは奥之院外境内での伐採と植林作業。鐘楼堂や仁王門、五重御堂などの瓦葺き工事の小取り(職人さんが瓦葺き作業に没頭出来るよう漆喰を練り、瓦と共に職人さんの手元まで運ぶ役割)。鐘楼堂の瓦の半分は私が運びました。
 
奥之院落慶大法要の後は、奥之院の院代(院主代行)として五年の歳月を送りました。特に思い出深かったのは、落慶法要後、地元紙『熊本日日新聞』の若い記者からの、「この奥之院は、あと何年くらいで完成しますか?」との質問に、「あと五十年はかかるでしょうか!」と答えたことです。
 
その記者は絶句しましたが、工事そのものはあと四、五年で終わるかも知れないが、高野山の奥之院の様に信仰の聖地、つまり霊場としての風格が調うには最低でも五十年はかかるだろうという意味で、その様に答えたのでした。
 
奥之院も来年は、開創四十周年を迎えます。果たしてあと十年やそこらで〝霊場〟となるものか。こればかりは我々僧侶の日々の修行の積み重ねと、そこにお参りされる多くの皆さんの信仰心が決める事となるでしょう。本院に下ってからは佛道修行に加えて、様々な機会を通じて世間的な学びと研鑽を積み重ねました。(続く)




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