御利益体験談
第21集

蓮華院の円門の由来

熊本県 YI

 蓮華院のお坊様に以前、吉永正法師という方がおられました。鹿児島、人吉、八代、鹿島、飯塚など九州各地の蓮華院支部を毎月巡回し、法話会をしておられました。背が高く目の鋭いお坊様で、法話会のとき以外は背広を着ておられましたので、宿泊先の旅館ではよく刑事と間違われると言っておられました。

 私の家は、父が蓮華院の準教師をしていた関係で、昭和三十五年頃から五十年頃まで、蓮華院八代支部となっており、毎月十八日が法要の日でした。吉永先生はいつも前日の十七日夕方に来て一泊しておられましたので、子供ながら時々私も夕食を相伴したり、翌日の法話会に参加したりしていました。

 そして、人を救われた話、蓮華院で病気が治った話、お守りやご霊水の霊験など、先生自身がいろいろの感動的な話や不可思議な出来事を毎月聞いて育ちました。現在私が蓮華院の信仰に生き、父と同じように準教師としてお手伝いさせていただいているのも、小学生から大学生になるまで、そのような話を聞いて育ったことが大きく影響しています。

 戦争前の話です。福岡県筑後市の田中寅吉さんは、機織の工場を営んでおられました。ところが昭和十年ころ、仕事がうまくいかなくなり、倒産寸前の状態になりました。悩みに悩んで倒産しかないとまで思い詰められた思われた田中さんですが、中興間もない蓮華院にお尋ねに参詣され、御開山大僧正様に特別指導をお願いされました。

 大僧正様の霊示は、霊障はなく、会社の回復のためには五年間の三日参りをしなさいということでした。つまり、五年間の間、三日、十三日、二十三日のご縁日と準ご縁日に欠かさずお寺に参詣すべし、ということだったのです。昭和十年頃ですから、昭和十六年の大東亜戦争(第二次世界大戦)へと向かいつつあった頃のことです。

 今ほど忙しい世の中ではなかったかとはいえ、工場経営者の田中さんにとって十日おきに参詣するのは、やはり容易なことではなかったようです。田中さんの自宅から蓮華院までは鹿児島本線で約三○キロ余りの道のりですが、当時は汽車の本数も少なく便利は悪かったのです。経営者として取引先や従業員との打ち合わせ、材料の仕入れや製品の販売、その他諸々の用事があり、差し支えも当然出てくることが予想されました。

 しかしながら、倒産すると自分はもちろん、従業員とその家族までも路頭に迷うことになります。背に腹は代えられません。田中さんは、開山大僧正様の霊示に従い、十日参りを決意されました。

 季節のよい春秋はともかく、雪の降る冬や炎天下の夏の日に、それこそ雨にも負けず風にも負けず、台風などで列車が不通のときなど風の中をやむなく自転車で参詣されたそうです。また、取引先との会合など、重要な用事が参詣の日に重ならないように十分注意しながら、またそうならないように一生懸命お願いしながら参詣なさったそうです。とにかくお参りに行くことを生活の中の第一に考えて過ごされました。

 「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉や、「コケの一念岩をも通す」という言葉もあります。当初はなかなか回復しなかった業績も、一年経ち二年経つうちに、少しずつ元の状態まで回復してきました。そして、三年、四年後には、仕事がまた軌道に乗り以前以上に注文が来るようになったそうです。一度は倒産を思った田中寅吉さんは死んだ気になって十日参りをされ、困難を乗り切ることが出来、満願のときには、以前以上に工場は繁盛するようになったそうです。

 お参りは自宅でも出来ますが、皇円大菩薩のおられます本院まで足を運んでお参りすることは、それだけで別の意味があります。なぜなら、交通費と往復の時間とを要するわけですから、それだけの強い意志と行動を伴うことです。お参りしたいなと、思うだけなら誰でも出来ます。しかし、行動に表さないと何の意味もありません。

 本院にお参りに来られたとき、山門脇の円門の裏側を覗いて見て下さい。「心願成就 紀元二千六百年 田中寅吉」と書いてあります。田中寅吉さんが無事5年間の三日参りを終わり心願成就されたので、感謝の気持ちを表すために寄進されたものです。紀元二千六百年は昭和十六年のことで大東亜戦争が始まった年です。合掌

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