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大日乃光






大日乃光

2023年10月18日大日乃光第2383号
そして龍神は舞い降りた奥之院開創秘話 その一 

四十五年前の荒涼たる奥之院
 
秋の深まりとともに、いよいよ奥之院開創四十五周年記念大法要(奥之院大祭)まで、あとひと月足らずとなりました。
 
九月から誌面で少しずつお伝えして来たように、今年の大祭では四年振りに二日の前行としての「功徳行」を修し、三日には「飛龍旗小学生相撲大会」を開催するなどいくつかの行事を再開します。このように着実にコロナ禍前の祭りの賑わいを取り戻して行きたいと念じております。
 
僧侶をはじめ寺院職員一同、「おかえりなさい!」の気持ちでお迎え致しますので、信者の皆さん方も、ぜひ奥之院に里帰りをするお気持ちで「ただいま!」と、元気な足取りでお参りして頂きたいと願っております。
 
思えば四十五年前の昭和五十三年、奥之院の落慶法要(開創法要)の時、私はまだ二十六歳、宗務長の光祐は二十二歳の学生でした。先々代の開山上人様が御入定なされてから、まだ一年にも満たない十一月十一日から十三日まで、三日間に亘り、奥之院の落慶大法要を盛大に厳修致しました。
 
その大法要の五ヶ月前の昭和五十三年六月十二日に、京都の植芳造園の職人さん達が現場入りされました。当時の奥之院は造成された荒削りの広大な境内に、心経門・鐘楼堂・仁王門・五重御堂・極楽橋・高台の木造の御霊廟が点在する荒涼たる景観でした。
 
それからというもの、延べ二百メートル、厚さ約三十センチの石畳の参道や仁王門両脇の松並木、約百五十メートルの水路(現在は肥後花しょうぶが植えてある)、そして五重御堂の巨大な基壇、極楽橋の両脇の石橋、約三百坪の桜ヶ池男池と中島の柴燈大護摩の護摩道場などが夜を日に継いで造られ、見る見る内に景観が整って行きました。
 
この奥之院の景観を整える大造園工事は、元東京農業大学の学長で、造園学者の進士五十八先生が、京都の植芳造園の当時の井上剛宏専務と共に、基本構想を練り上げて頂いたものです。その後、進士先生は日本造園学会の会長などを歴任され、井上氏は現代日本を代表する造園界の大御所となられました。
 
開山上人様のご慧眼により設計架橋された極楽橋
 
この造園工事の圧巻は、極楽橋の右側部分の池を造成するための基礎工事でした。この工事は、それまで天然の池として水がたまっていた池の面積を二倍に拡張する工事でした。
 
極楽橋は、造園工事の着工前には、それまで自然に出来ていた池の右端に、空池(からいけ)橋のように架橋されていたのです。それが、その後の植芳造園の大基礎工事によって、極楽橋とその両脇の二本の石橋は偏った場所ではなく、桜ヶ池の中央に極めて自然な形でピタリと納まったのです。
 
池工事の一年前に開山上人様が、ご自身の設計と施工監督によって、天然池の右端に橋を造られた時には、当時まだ若かった私は「なぜあんな端っこに橋を造られるのだろう?」と、その不自然さを不思議に思っていたのでした。
 
ところが大造園工事を経て、一年後には極楽橋が池全体のほぼ中央に、まさにそこにあるべくしてあるように、伽藍全体の配置における要(かなめ)の位置に架かっていたのです。私は開山上人様のご慧眼に、改めて心服したのでした。
 
造園工事を監督された若き名匠井上剛宏氏
 
また、四十五年前の今頃(十月中旬)は、参道の石畳を敷き詰めるために大小のクレーンが毎日十数本も立ち並び、文字通り大工事の壮観を呈していました。
 
さらにその三ヶ月前の七月頃までは、荒涼とした内境内の半分近くを埋め尽くす大小の自然石(大きな石は優に十トンを超える)の数の多さに私は圧倒されていました。
 
それら全ての石が、「石組み名人」の采配によって、わずか二ヶ月の間に桜ヶ池男池の中に全て納まってしまったので、本当に驚きました。そして造園工事をトータルに指揮されていた井上氏の力量にも感服しました。
 
この井上氏は、平成元年の「平安遷都千二百年祭」を記念して造営された京都の梅小路公園(京都駅の一キロ西)を手がけられました。また平成十七年には京都御所の東側にある京都御苑の「迎賓館」の竣工に当たり、その庭園を副棟梁として指揮、造成されました。これらの実績によって、井上氏は全国の造園界でも名実共に最高クラスの名造園家となられたのです。
 
天候に恵まれた?工事と法要
 
このように、約五ヶ月間の急ピッチで進んだ造園工事と並行して、私は五重御堂の瓦葺き工事に携わっていました。
 
こちらも名工の瓦職人さんが「半年はかかる」と仰られていた瓦葺き工事を前にして、「半年では困る!四ヶ月間で仕上げて下さい!もし工事が終わらず、たとえ足場が残ったままであったとしても、十一月には落慶法要(開創法要)を必ず致します」と、不退転の決意を伝えたところ、有り難いことに職人さんを四人から五人に増やして頂き、一日も休むことなく瓦葺き工事を進めて頂きました。
 
こうして落慶法要の数日前には全ての足場が撤去され、参道の石畳工事も、桜ヶ池の工事も、落慶法要の前日には全てが無事に終わっていたのでした。この間の二ヶ月程はほとんど雨も降らず、一日も休むことなく各種の工事が進んでいったのでした。
 
こうしていよいよ落慶法要の日を迎えました。昭和五十三年の十一月十一日、その日は朝から雨でした。翌十二日も雨でした。そして十三日も午前中は降ったり止んだりの天候の中、小雨に濡れながらの法要を厳修したのでした。
 
直前まで工事が続いていた関係で、桜ヶ池にはまだ水が張られていませんでしたが、二日以上降り続いた雨で、十三日の午後には池の半分まで水がたまっていたのでした。
 
奥之院に龍神が舞い降りた
 
そんな中で、十三日の午後には奥之院で初めてとなる柴燈大護摩祈祷を、予定通り、感動の中で無魔成満する事が出来たのでした。
 
こうして全ての法要が終わり、職衆として参列して頂いた約二十口の日本各地からの僧侶の方々を見送ったのが、午後四時過ぎでした。
 
後片付けを終えた午後五時頃、本院から先代の真如大僧正様が電話をかけてこられました。その内容は、「佐賀のお寺、七ヶ寺の住職の皆さんには三日間も落慶法要に出仕して頂いたので、今日中に御礼のご挨拶に行くように!」との御指示でした。
 
落慶法要の三日前からほとんど寝ていなかった私は、「…何という無体なことを言われるんだ」と一瞬戸惑いが心を過りましたが、当山の弟子としての私は即座に「はい!」と答えていました。
 
しかし佐賀の七ヶ寺まで、一人で車を運転して往復する自信のなかった私は、五時十五分に弟の光祐と一緒に佐賀に向けて出発しました。
 
訪れた先々のお寺さんからは、「わざわざすまないね。英照さんも疲れているだろうに、ご苦労様」と、温かいねぎらいの言葉を頂いて、安堵の思いで帰路につきました。
 
帰りは弟に運転してもらい、私は疲労困憊と睡眠不足のため、いつしか助手席で眠り込んでいました。
 
すると、車が奥之院に近づいた頃、私は何ものかの気配に「ハッ!」と目醒めたのです。
そのまま前方に目を凝らすと、まさに奥之院の方角から五色の光が飛び込んできました。
あわてて弟に車を停めさせ、車外に飛び出しました。
 
そして、「オイ、見てみろ!」と奥之院の方角を指さしました。弟も「オー!」と声を上げて立ちすくんでいました。そこには青い龍が空から舞い降りる姿がありありと見えたのです。
 
私の目には五色の光をまとった「青龍」が、奥之院の御霊廟(現在の大佛様の御座所)の上空を三重に取り巻いているのが、はっきりと見えたのでした。(続く)




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