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大日乃光






大日乃光

2020年08月08日大日乃光第2281号
大いなる鎮魂の八月に戦没者を悼む

憂鬱な七月と八月
 
今年もまた終戦記念日の八月十五日がやってきます。私にとってこの日が近くなる七月から八月は、憂鬱な季節です。
 
この頃にかけてテレビで戦争の様々な記録フィルムが上映されますが、日本が負け戦になる頃の悲惨な映像は、私の気持ちを実に沈鬱にさせます。
 
米軍艦船の高射砲弾が当たり、炎と煙を出しながらそのまま海中に墜落する日本の特攻機。火炎放射器に焼かれジャングルの洞窟から飛び出したところを機関銃で撃たれ、斜面からごろごろと転がり落ちる上半身裸の日本兵。ガダルカナルのきれいな砂浜に丸太のように横たわる無数の日本兵の死骸。やり切れない気持ちになるのは、私ばかりではないでしょう。
 
私の父は二十五歳で中国の戦地に行き、六年間の戦争生活の後、幸いにも帰還しました。帰還後数年は、戦地最後の頃の退却戦で、中国兵に追われる恐怖の夢でうなされていたと、言っていました。
 
父の弟二人は終戦から一年後、シベリア抑留中に病気で死亡しました。父のすぐ下の伊藤正行は、帰還途中に一時滞在地であった現北朝鮮の古茂山で、蔓延したチフスに罹り二十三歳で亡くなり、一番下の弟敬一はバイカル湖の北の地で第二シベリア鉄道建設の強制労働中に、おそらく栄養失調のため十九歳で亡くなりました。いかに無念だったろうか、と考えると今でも私の心は痛みます。
 
私は元大学教師でしたが、学生たちと同じ年頃だった叔父たちのような若者が、アジア各地や太平洋の島々で幾十万と亡くなったことを思うと、大いなる哀惜の念を禁じ得ません。
戦後十四年が経ち、私が小学二年生のときに敬一の遺骨が帰ってきましたが、箱の中身は名前を書いた一片の紙切れだけでした。
 
水漬く屍草生す屍
 
こうして先の大戦では、実に三百万を超える膨大な数の軍人軍属、そして民間人を含めた日本人が亡くなりました。
 
昭和二十年三月の東京大空襲では一夜で十一万の市民が、同年四月から六月にかけての沖縄戦では軍民合わせて二十万、そして広島では十四万、長崎では七万の人が犠牲になりました。
 
私の母は八代高等女学校の四年間のうち、後半の二年半を戦争で過ごし、授業は殆どなく勤労動員による作業の毎日でした。十七歳で卒業後、八代駅で勤務中に身近に爆撃を受けた経験もある母は、「もぉう戦争は嫌だ」と言っていましたが、その言葉には経験したものしか分からない実感の重みがありました。
 
昭和十九年三月の自分の卒業式では「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌わず、「海ゆかば」を歌いました。
 
海行かば水漬く屍、
山行かば草生す屍、
大君の辺にこそ死なめ、
顧みはせじ
 
この歌は「海で戦えば水に浸かる屍となり、陸で戦えば草が生える屍となるとも、(国のために)陛下の御許に死にましょう。決して心残りはありません」という内容の、『万葉集』にある大伴家持の長歌の一節を元に作られた曲です。卒業式を始め学校行事のときはいつもこの歌を歌ったと、母は何かことある毎にその話をしてくれました。
 
私の叔父たちはまさにこの歌のとおり、シベリアの地で草生す屍となり、まだ今も遺骨はそこに眠っているのです。日本国中の大半の家庭に戦争犠牲者はいて、彼らは皆水漬く屍か草生す屍となっているはずです。それを思うとき「海ゆかば」の荘重な旋律と歌詞は、強く私たちの胸を衝くものがあります。
 
八月は各家庭で先祖を供養するお盆の月でもありますが、正にそのときに戦争が終わったことは、戦没者の霊たちが、「もうこれでいい、十分に戦った」、とお盆に合わせて終わらせたかのようにさえ思えます。
 
正午の追悼式での陛下のお言葉を聞くと、七十五年前の同じ日同じ時間の玉音放送にも重なり、また外に聞こえるセミしぐれは私たちを呼ぶ彼らの遠い微かな叫びに聞こえるのです。
 
蓮華院にとっての戦争と戦没者の鎮魂
 
是信大僧正様(開山上人様)は明治二十九年生まれで、三十七年から八年の日露戦争のときは八~九歳でした。大勝利の高揚感は幼少期の大僧正様にも鮮明な印象として残り、日本を誇りに思う気持ちが募ったに違いありません。
 
昭和十二年、四十一歳のとき日中戦争が始まり、二年後の四十三歳のとき百十三日間の無言の行を修されましたが、そのときの願は「日支事変第一線に立つ皇軍将兵の武運長久並びに傷痍軍人の速疾平癒と衆生の願望成就」でした。
 
そして終戦の年は四十九歳で、働き盛りだった四十代は長い戦争の時代でした。無言行という荒行までして祈られた武運長久でしたが、戦い利あらず日本は敗北し、実に膨大な数の命が失われたことに、宗教家として強い心痛と哀惜の念を抱かれたに違いありません。
 
それはその後の蓮華院の活動の随所に感じられます。昭和二十五年に三番めの本堂というべき大願堂が落慶しましたが、これは「世界平和祈念大願堂」が正式な名称です。
 
そのとき二基の位牌を作られ、今でも本堂内陣の御本尊の左右に安置されています。それには「戦事犠牲者萬霊位」と「世界平和祈念牌」と書かれ、どちらも裏には「為大願堂落慶入佛 維時昭和二十五年六月吉祥日 新興沙門是信敬白」と書かれています。
 
つまり昭和二十五年六月十三日落慶の大願堂は、戦事犠牲者萬(万)霊ですから先の大戦の全ての犠牲者の追福菩提と、世界平和への祈念という二つの「大願」のためだったのです。
 
これだけに終わりません。翌二十六年一月一日から三十日間の断食行を修されます。このときの願は記録がありませんが、おそらく前年と同様と推測され、新年に当たって新たな決意で臨むために、この行を修されたと思われます。
 
というのは、その後熊本駅西側の万日山に護国寺を建て、そこに萬霊殿と呼ばれる戦没者を慰霊する高さ三十メートルの大毘盧遮那佛(大日如来)像を建立するという計画が立てられたのです。
 
実際に昭和二十八年から三十年にかけては、その募金をするため、米軍払い下げのバスを寝泊りできるよう改造し、数人のスタッフで西日本各地の津々浦々を回ったのです。短期は一日から長期は四か月にも亘る募金行脚で、合計十四回も行なわれました。
 
俄作りのキャンピングカーによるこの行脚は、今から思えば過酷な旅行だったと思いますが、その当時は当然のことのようにお寺を挙げて行なわれました。結果的には、募金はうまく集まらず計画は失敗に終わりましたが、やはり戦没者を慰霊することに対する是信大僧正様の尋常ならぬ熱意が窺われます。
 
こうした意識はその後も継続され、昭和三十三年六月十三日の大祭の願文にも、「殊は世界萬霊の来臨影向を仰ぎ、戦歿精霊の追福追悼の法要を施行せんと欲す」とあります。蓮華院の信仰の根本は先祖を供養することにありますが、戦後十年以上を経ても是信大僧正様は国の先祖としての戦没者のことを気にかけてその供養を実行しておられたのです。
 
国と家の先祖供養
 
現代の私たちが繁栄を享受し、日本が世界にも誇れる豊かな国になったのは、水漬く屍草生す屍となった戦没犠牲者のおかげであることを、私たちは常に忘れてはなりません。
 
八月十五日は天皇陛下自らが、日本武道館で行われる戦没者追悼式にご臨席になり、追悼の言葉をお述べになります。国家が戦没者の慰霊を行なうのは、国家としての先祖供養であり、私たちが家の先祖を供養するのと同じです。
 
私たちもまた、当日の十二時には陛下と一緒に戦没者へ黙祷を捧げようではありませんか。そしてまた家庭では墓前に向い佛前に座って、先祖の霊に祈ろうではありませんか。
 
蓮華院では、毎年八月十三日のご縁日法要が終わると、教師準教師ともに霊園に向かい、そこにお祀りされている方々の追善供養とともに戦没者慰霊の平和祈念法要を行ない、今も是信大僧正様の願いを継続しています。日本人にとって八月は正に祈りの月なのです。合掌




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