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2021年04月20日大日乃光第2304号
「福智無辺誓願集」で周囲を照らす灯火になろう

「福智無辺誓願集」で周囲を照らす灯火になろう
 
八百五十三年大祭に向けて
 
新型コロナウイルスも、待望のワクチン接種が医療従事者から始まり、現在は六十五歳以上の方への優先接種が粛々と始まった頃と思います。そして基礎疾患を有する方の接種へと続き、感染した場合の重篤化が最も懸念される方々への対策が終われば、以前のような日常に戻る道筋がようやく見えて来るのではないかと思います。
 
すでに『大日乃光』四月十一日号でお伝えしましたが、令和三年の六月大祭について改めてお伝えします。
 
今年の六月大祭では、自粛解除後に向けての一歩前進として、大祭の前行としての十二日の功徳行を、十二時三十分開始の日程で再開する事に致します。
 
それ以外については昨年に引き続き、通常の御縁日と同じ十時からの日程で、御遠忌法要のお参りを皆さんと一緒に祈念致しましょう。
 
内容としては、十三日の十時から長めにお参りをします。『般若心経』七巻をお唱えし、僧侶衆で『理趣経』等を唱え、その間に護摩を焚きます。いつもは全体で四十五分程になるお参りを一時間程度に延ばし、念入りにお参りします。
 
またお参りの叶わない遠方の方のために、今年も奉納写経を致したいと思います。
令和三年の六月大祭はこの様に執り行います。
 
三密の修行に照らして「十善戒」を前向きに捉える
 
さて、前回は『在家勤行次第』に出てくる「十善戒」を生活に取り入れて、その中で個性を輝かせるための具体的な手立てをお伝えしました。
 
そこでは身体で行う行動についての三つの戒めとして「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」(真言密教の「三密の修行」の【身密】に相当)を説き、言動についての四つの戒めとしての「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」(同じく三密の修行の【口密】に相当)についてお伝えしました。
 
この「十善戒」は一般的な解釈では、生き物を殺さない、盗みを働かない、人の悪口を言わない、二枚舌を使わない、など「~しない」と表現される禁止事項としての身体・言葉・心に関する十の戒めということになります。
 
しかしそれだけに留まらず、もっと前向きに積極的に解釈し、全てを活かしながら高めていくことによって、その人の本当の個性が発揮出来るという事をお伝えしました。
 
今回は心の持ち方に関する三つの戒めとしての「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」(三密の修行の【意(心)密】に相当)についてご説明致しましょう。
 
この三つが実は「貪・瞋・痴」の三大煩悩に相当します。百八煩悩の大本が、この貪・瞋・痴なのです。それほどこの「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」を解消し、乗り越えるのが難しい、大きな煩悩なのです。
 
所作と言葉遣いにその人の人となりが現れる
 
少し話の方向を変えてお話ししましょう。
 
人が他人の事を「この人はどんな人だろう?」と思っても、その人の心の内を知る事はなかなか出来ません。ですから、その人がどんな表情をしてどんな身のこなしをしているか、どんな声でどんな言葉を話しているのかといった、外に現れている事を通してしか、評価や判断する事は出来ません。
 
若い頃(三十代まで)の私は、「自分は対人恐怖症か?」と悲観するほどの訥弁(吃り)でした。しかも早口でしたので、周りの人から何を言っているのか充分に理解されない事が時にはありました。
 
そんな頃、先代真如大僧正様から、「人は、その人がどんな人物なのかを判断する時、その人が何を語り、どんな文章をどんな字で書いているかで見極めるものだ!何としても話し方を克服しなさい」と指導されたことがありました。
 
まさにその通りです。他の人からどう見られるかという時、言葉にハンディキャップがあるのは大きなマイナスです。
 
その一方、十二年前に言葉を無くした妻は、「お早うございます」の挨拶の言葉さえ口に出来ませんが、その代わりに朝から満面の笑顔と和やかな声で出会う人と接しています。ですから挨拶の言葉以上のものを、出会う人びとに与える事が出来るのも間違いありません。
 
三大煩悩を克服する良き言葉と動作と日々の精進
 
「十善戒」の最後の三つは心の持ち方【意(心)密】に関する戒めです。しかも人間の持つ根本的な三大煩悩「貪・瞋・痴」への戒めであることは先に伝えました。
 
ですが、たとえ自分自身であっても、心の奥底に潜む煩悩を見極めるのは難しく、この三大煩悩を克服するには、表面に表れる言葉【口密】と動作【身密】によって己を修養し、日々努力するしかないのかもしれません。
 
心を綺麗にする掃除道具は、言葉の使い方や、身の処し方の中にこそあるのです。
「不慳貪」即ち貪らないためには、奉仕の心を持って、自分に出来る布施や、「無財の七施」(四月一日号で詳しく伝えてあります)をたゆまず心がけて実行するしかないのです。
 
「不瞋恚」即ち不必要な怒りを表さないためには、自分の至らなさを反省しつつ、笑顔を絶やさないように努める事で克服するしかありません。
 
しかし、どんな理不尽な事にもニコニコしているのは果たして良いことでしょうか?
「どうしてもこれは正しくない!」「こんな理不尽なことを、神佛はどう見られるだろうか?」というような事柄に対しても、ニコニコと笑っていていいものではありません。
 
佛様の慈悲の心に照らして、正しくないことであれば、「慈悲心からの怒り」を表すことも場合によっては必要です。
 
最後の「不邪見」(邪な見方をしない)の「邪見」は、私達が本来の素直な心になれば、何が正しくて何が間違っているのかは充分解っているのに、自分の都合や行きがかり、さらには小さな我欲やプライドが邪魔をして、本当の事が見えなくなっている状態の事です。
 
ですから「正しい事を正しく見る」「間違ったことを間違っていると判断する」ためには、日頃から良き言葉、良き動作、良き習慣などに努める事が肝要です。そうすれば人が本来持っている正邪を見極める本性(佛性)が、より良い働きをするに違いありません。
 
煩悩をも前向きに肯定的に捉える真言密教の真髄
 
大乗佛教の菩薩が佛道を歩む時に立てる四つの誓いとして、「四弘誓願」(しぐせいがん)というものがあります。
 
一、衆生無辺誓願度
生きとし生ける全ての命を救済しようという誓い
 
二、煩悩無量誓願断
煩悩は無量無数だが、これをすべて断って行こうという誓い
 
三、法門無辺誓願学
佛法の教えは無尽だが、これを知り学ぶという誓い
 
四、菩提無上誓願証
佛道は無上だが、必ず成佛しようという誓い
 
私達真言宗の僧侶は、この二番目の「煩悩無量誓願断」は唱えません。その代わりに私達は次の誓願を唱えます。
 
二、福智無辺誓願集
福徳や智慧は無辺で無限であるが、これを集め、身に付けて行こうという誓い
 
それは貪・瞋・痴などの煩悩をマイナス要因ばかりに捉えるのではなく、煩悩そのものを生きるエネルギーであると、前向きに肯定的に捉えるからです。
 
例えば貪りの心が、ある面では人に向上心を与えます。怒りの心が不正を許さない強さを人に与えます。そして邪な見方や生き方の代わりに、先に述べた様な清く正しい生き方をしようと決意するのです。これら前向きな生き方こそ、福徳と智慧(福智)を私達に与えるのです。
 
つまりマイナスとしての煩悩を少なくする生き方ではなく、プラスとしての福徳や智慧を増やして行こう、集めようというのが、この「福智無辺誓願集」なのです。
 
かと言って「良いことをしているから少しは周りに迷惑をかけても構わない」といった奢った生き方ではいけません。身を慎むべき事は言うまでもありません。この兼ね合いが難しい所です。
 
福徳と智慧を象徴する多宝塔
 
今、世間では自粛生活が続く中で「コロナ疲れ」という言葉が囁かれています。日本の社会全体が、重苦しく後ろ向きな感情に覆われている今だからこそ、この積極的で前向きな「福智無辺誓願集」の生き方を、私達は本気で実行していかなければなりません。
 
その福徳と智慧を象徴するのが三年前の八百五十年大祭で落慶した多宝塔なのです。あの時の勢い、熱意、篤い篤い思いを今こそ思い起して下さい。
 
あの時のような元気が、様々な出来ない事への不安や不満を超えるような勢いが、今こそ日本社会と私達の意識に必要なのです。
 
そして、より良き生き方を積極的に求め、物事の道理を弁える智慧を、皆さんが社会に発信して行かなければなりません。
 
これから先、信者さんの一人びとりが社会の中で多宝塔のように光り輝き、周りの人々の未来を明るく照らす灯火になられる事を切に願っております。合掌




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