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2021年07月28日大日乃光第2312号
「お盆の由来と私達のおつとめ」

「お盆の由来と私達のおつとめ」
 
本誌が皆さんのお手元に届く頃、貫主大僧正様が六月大祭で御法話なさいましたように、オリンピックが開幕し、ご家庭では世界の一流選手による技の競演に歓声を上げている事でしょう。
 
一方で首都圏では四回目の緊急事態宣言が発出され、無観客による開催という苦渋の決断となりましたが、これが「最後の宣言」であり「最後の我慢」と言われるように、ワクチン接種の進捗によるコロナ終息後の明るい未来への光も見えて来ています。
 
オリンピックが閉幕すると八月盆の時期を迎えます。猛暑の続く中、熱中症などで体調を崩さないよう充分ご自愛されて、お盆を迎えて頂きたいと念じております。
 
お盆のおこり
 
さて、そもそもお盆とはどういう意味なのでしょうか?。サンスクリット語の「ウランバナ」というのがその語源で、中国では音写して「盂蘭盆会」と言い、日本では略して「お盆」と言い倣わしてます。
 
そして「ウランバナ」は、何と〝倒懸〟(とうけん)、つまり「さかさまにつるす」という非常な苦しみを表す漢字に翻訳してあります。この世で悪い行いの多かった人が死後、地獄や餓鬼道に堕ちて針の山に逐われたり、さかさづりの罰を受けるという意味です。
 
盂蘭盆会とは、そのような「さかさづり」のような苦しみから救うための供養の法会ということです。 
 
盂蘭盆会の由来は、『佛説盂蘭盆経』に記されています。それはお釈迦さまの十大弟子の一人である目連尊者(摩訶目 連)がお釈迦さまの教えに従って、亡くなった母親を供養して餓鬼道の苦しみから救われるというお話です。これが「お盆」のおこりです。
 
この盂蘭盆会がインドから中国を経て日本に伝わったのは、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政として政務を執行された推古天皇の十四年(西暦六百六年)に始まると、皇円上人の『扶桑略記』に記されています。
 
父母を捜す目連尊者
 
目連尊者は、お釈迦さまの十大弟子の中でも、智慧第一とされる舎利弗尊者と共に有名なお方で、〝神通第一〟と称えられる優れたお方です。ある時祇園精舎で、目連尊者は次のような事をお釈迦さまに問い掛けられました。
 
「私はお釈迦さまのおかげをもちまして、〝神通力第一の目連〟と言われる程の神通力を得ました。この神通力を使って今は亡き父母に何かできないかと思い立ち、まず父上がどこに居られるかと霊視力で捜してみました。
 
佛陀界、菩薩界、声聞界、縁覚界と上の方から捜して参りますと、父上は幸いにも縁覚界で見つかりました。さて母上はと捜しますが、どこにも居られません。
 
四聖界(ししょうかい=極楽)に居られないとすれば六道(ろくどう=天界・人間界・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界)に居られることになります。亡き父母は、少なくとも四聖界の内に居られるものとばかり思っておりまして、六道におられるとは考えてみたこともありませんでした」
 
食べ物が炎と化す餓鬼道
 
「私は母上の苦しみを思い、堪まらぬ思いで六道を捜す決心を致しました。
まさか六道におられるはずがないと何度も思いながらも、上から順に五段目四段目と捜す内に、何と下から二段目の餓鬼道に、母上によく似た人が居られるではありませんか。
 
骨と皮ばかりに痩せているので間違いかとも思いましたが、やはり私の母上でございました。痛ましい事に、母上は餓鬼道に堕ちて居られるのでした。私の驚きと悲しみは如何に譬えられましょうや。
 
私はお鉢にご飯を盛り、お盆に載せて痩せて見る影もない母上にお進めしました。母上は大変喜ばれ、左手で鉢を支え、右手でご飯を食べようとされましたが、差し上げたご飯が口に入る直前にたちまち炎となって燃え上がり、ついに食べることが出来ませんでした。
 
私はその様子を見ているだけで身を切られるように辛く悲しくなり、大いに泣き叫びました。お釈迦さま、どうすれば、母上をこの苦しみから救うことが出来ましょうか」
 
供養の功徳と子孫の力
 
お釈迦さまは、次のように答えられました。
「そなたの母者は生前、そなたを愛するあまりに心が冷たく、他人に施すことを怠った。そうしたさもしい心で積んでしまった生前の業のために、そなたの母者は餓鬼道に堕ちておる。
 
もはやそなた一人の功徳力を以てしても、母者の罪業を償うことは出来ぬ。
例えそなたの孝順の声が天地を動かし、天土の神々、果ては四天王まで動かしてもどうにも出来ぬ。まして苦悩の母者の霊魂を救うことも叶うまい。
 
しかし、大勢の修行僧の力が結集すれば、そなたの母者も解脱することが出来るであろう。
これからそなたに救済の方法を授けよう。それですべての苦しみや憂いも消え去るであろう。
 
間もなく安吾(あんご=一定の期間大勢の僧侶が一ヶ所に籠って修行する期間)の終わりを迎える故、修行を積んだ高徳の僧侶やそなたの同僚の僧侶に頼み、果物や食べ物を供え、清らかな席を設え、そこに集まる僧侶や有縁の人々に真心を込めて供養を尽くしなさい。
 
そうすれば供養の功徳と皆の力でそなたの母者は成佛し、安住の地へ赴くことができるであろう」
 
目連尊者はお釈迦さまのお諭しの通りに百僧を招いて百菓を献じ、亡き母の霊を供養なさると共に、近所の人達に対しても配りものをして「施餓鬼供養」をなさいました。
 
その功徳と祈りの力によって、目連尊者の母親は苦しみの世界から脱して声聞界に行くことが出来たということです。
 
いわゆる「盆おどり」は、その時の目連尊者の母親の喜びを表したものとも、またその姿を見て喜ぶ目連尊者や僧侶衆や、近所の人々の喜びを表したものとも伝えられています。
 
このようにお盆の時期にご供養なされますと、亡くなられたご両親様だけではなく、遠いご先祖様にも功徳が及ぶとも言われております。そしてご先祖様方が成佛されて幸せでなければ、子孫の幸せもありえないとも言われています。
 
つまり、ご先祖様方が子孫からの供養が足りず悩み悲しんでおられますと、その子孫にも悲しみと苦しみが伝わって来るというのです。
 
なぜ餓鬼道へ?私達への戒めとして
 
お釈迦さまの十大弟子の一人、目連尊者の母親は、どうして餓鬼道に堕ちなければならなかったのでしょうか? 
 
目連尊者のお母さまは、それはそれは子供思いの母親だったのですが、残念な事に他人にも同じように施す(思いやる)ことをなさらなかったのです。
 
他人に物を与えれば、それだけ自分の家の財産が減ると考え、損になるようなことは一切されませんでした。まだ幼い頃の目連尊者が友達と遊んでいる時も、吾が子にはお菓子や果物を与えても、よそ様の子供には一切何も与えようとされなかったのです。
 
世の中は助け合いによって成り立っています。思いやりや慈しみの心が、人々の幸せと社会の平安のもとであります。悩みや苦しみを持つ人の相談に乗り、お世話をしてあげることも、実は立派な「功徳」であり施しになるのです。
 
こうした善行の有無が死後、六道にさまようか、四聖界に上って成佛するかを分ける元になります。
 
先代の真如大僧正様が提唱された「一食布施」は、私達が為すべき善行の実践であり、それは貫主大僧正様に引き継がれ、蓮華院の信仰の中でも大切な「布施行の実践」となっております。これこそ誰にでも実践出来る、現代の「施餓鬼供養」とも言えるのではないでしょうか。
 
慈恩に報い反省そして感謝を 
 
戦後、日本は大きく変わりました。最近は特に、自分の子供以外には関心を払わない人が増えてきているようです。
 
「吾が子さえ良ければ、よそ様の子供などどうなっても構わない」と言わんばかりの父親達、母親達が結構多いようです。これでは餓鬼道に堕ちた目連尊者の母親と変わりません。
 
この上で、特に私達が心を配りたいのは、「恩」に対する考え方であります。もしも、この「恩」に対して当然持つべき感覚、即ち感謝と反省が失われたならば、この社会、この世間は一体どうなってしまうのでしょう。
 
私達は誰もが全て、この尊い「恩」の連鎖によって支えられているのです。そして、このように多大な恩恵を受けている自分が、では今まで一体どれほどの恩返しをして来たかを思えば、反省せずにはいられないはずなのです。
 
この深い心の底からあふれ出る「申し訳ない」という懺悔の精神、つまり反省の心が報恩の自覚へと繋がり、ご先祖様へのご供養をせずにはいられなくなるものなのです。
 
まさに「反省」から起きるこの自覚こそ、「感謝」に変わり「報恩」へと進む第一歩なのです。
 
そしてすべての人々が祖先や社会の恩、さらにみ佛様の慈恩を深くかみしめた時に、はじめて世界は平和な光に包まれて行くことでしょう。
 
私達は、この厳しい人生を生きていく上で最も大切なみ佛様の慈悲のみ心を、身をもって教えて下さったご先祖様をはじめ、亡き父母や祖父母の御魂に対して、心からなる感謝の誠としてのご供養を捧げ、今年のお盆をお迎えいたしたいものです。合掌




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