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大日乃光






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2022年05月31日大日乃光第2339号
皇円大菩薩様の伝説と蓮華院誕生寺の縁起(一)

枇杷の実が随分大きくなり、中にはピンポン玉に近い大きさのものもあります。来月の六月大祭の頃には殆ど完熟する事でしょう。
 
植物達は確実に活動を続けながら、その時その時に合わせた一番良い気候に花を咲かせ実を結んでいます。我々もかくありたい。確実に実をつけ、そして次の世代を残すと。そういった意味では植物は一年間でそれを成し遂げているわけです。
 
自然の移ろいというのは我々に多くの感動と喜びを与え、そして我々もこのように頑張らなくてはという気持ちを思い起こさせてくれます。
 
沖縄本土復帰五十周年に思う
 
去る五月十五日は沖縄本土復帰五十周年でした。前号で話したサンフランシスコ講和条約からの七十周年では特に記念行事はありませんでしたが、沖縄復帰五十周年では天皇皇后両陛下のオンラインによる御臨席を仰ぎ、大々的に記念式典が催されました。
 
沖縄は戦後二十七年間、アメリカの統治下にありました。その間にアメリカは右側通行や通貨をドルにしたり、日本の国旗と国歌を廃止させようとしたり、果ては公用語を英語にしようと画策していたのだそうです。
 
これは最近知った事ですが、当時、他ならぬ沖縄の人々自身が猛烈に反対運動を展開して日本語による教育を守り抜いたと聞き及び、驚くと共に非常に感動致しました。
 
近頃は沖縄の人々が米軍に嫌がらせをしたり、自衛隊に出て行けと言ったり、果ては日本から独立すべきと言う極一部の人々の風潮がマスコミに大きく取り沙汰されて来たからです。
しかし実はそうではなかったと。沖縄の人々が日本語教育や国旗を守り抜いてきた事を知り、嬉しく思いました。
 
それと同時に今のウクライナ情勢を見るにつけ、五十年前に一滴の血も流すことなく沖縄を本土復帰させ、国土を回復した事は、人類の歴史に金字塔の様に輝く大偉業であったと、今改めて思っております。
 
大梵鐘お身ぬぐい式を執行
 
さて、いよいよ当山で最も大切な六月大祭、皇円大菩薩様御入定八百五十四年大祭が迫って参りました。
 
今年も感染防止対策に配慮し、お参りを中心に大祭を執り行います。また全国の信者の皆さんが自宅からご一緒にお参り出来るように、インターネットで法要と法話を配信します。
 
それに加えて今年は大祭の前行としての「功徳行」を十四時開始に戻し、「大梵鐘お身ぬぐい式」を復活します。そのために今、心をこめて浄布を準備しております。
 
『大日乃光』誌面でも六月大祭に向けて、いま一度蓮華院信仰の原点を振り返るために、皇円大菩薩様御入定の伝説と蓮華院中興の縁起を二回に亘り掲載します。まず初めに戯曲風の皇円大菩薩様伝記をお伝えします。
 
時ハ嘉応元年六月十三日
 
嘉応元年六月十三日のことでした。その日は蒸し暑い日でありました。
 
ここは太政大臣花山院(藤原)忠雅公の邸宅(太政大臣は今で言う総理大臣)。午前中はまだ爽やかな風が比叡山から吹き下しておりました。その風と共に一通の悲報が忠雅公の元に届けられました。
 
それは、「皇円上人様がお亡くなりになりました」という報せでありました。
 
「我が同族の皇円上人様はついにお亡くなりになったのか! 確か御歳九十六才であったのう。とうとう来るべき時が来たのか…」と深い悲しみに沈みながら、在りし日の皇円上人様の温顔と謦咳が忠雅公の脳裏に蘇りました。その悲しみを象徴するかのように、雲が低く垂れ込め、重苦しい空気が京の都を支配しました。
 
その日の申の刻(午後四時頃)、一人の旅の僧が忠雅公の邸宅に錫を止めました。
門前に佇むその僧侶が、
「当館の主にご相談があるので伺いました。是非にも主にお目通り願いたい」
「貴僧の御名前を伺いたい」と門番が問い質すと、
「拙僧は比叡山に住いしていた皇円と申す者にございます。何としても主にお目通りしなければなりません。よろしくお取り次ぎの程を!!」
 
気品のある老僧の切羽詰まった申し出を受けて、門番は当主の忠雅公に言上しました。
忠雅公は、「なに!! 皇円とな! そんな筈がない。皇円上人様は本日寅の刻(午前四時頃)におかくれ(亡くなられた)と聞いておる。その僧は皇円上人様を騙る売僧に違いない! 化けの皮を剥がしてやる。庭に引っ立てろ!」と激怒なされました。
 
驚愕ノ対面
 
ほどなくして、旅の僧は忠雅公との面会が叶いました。
忠雅公 「そこもとの名は?」
皇円上人「肥後阿闍梨皇円と申す」
忠雅公 「何! 皇円と申すか!! ならばその面を上げよ!」
静かに編笠から顔が見える程に、その旅の僧は顔を上げました。  
忠雅公 「おお! 皇円上人様、あなたがお亡くなりになったというのは間違いだったのですか?」
 
皇円上人「否、それは誠のことです。私は半日前、今生を終えました。しかし次の生をうけることになれば、これまでの八十年余りの修行も学問も、全て忘れ果てることになります。その宿命を受け入れることは、あまりに残念に思いました。
 
そこで永遠の命を保つという龍神に身を変えて、更なる衆生済度の心願成就のために修行を続けていきたいのです。幸い弟子の法然房が遠州の桜ヶ池を捜し当てました。彼の池こそ、龍神修行にふさわしい池です。
 
しかしその池の領主にご挨拶をせぬままでは、その池に入るに偲びません。そこで桜ヶ池一帯の領主であられる貴殿に、龍神修行に入る許可を頂きに参上したのです」
 
感動で目頭を熱くした忠雅公が、「そうでしたか。そのように崇高なご誓願を立てておられたのですか…。そのようなご誓願の前には私の所領であろうがなかろうが、もはやどうでも良いことです。どうぞお心おきなく桜ヶ池にて龍神修行にお入りなされませ」
 
そう言い終わるや否や、皇円上人様は忠雅公の前から忽然と姿を消してしまわれたのでした。
 
火急ノ早馬
 
それから数日後、忠雅公の所領である遠州から、早馬で火急の報せを持った使者がやってきました。「頼もう頼もう。我は遠州よりの伝令を仰せつかった者でござる。当家の主に伝えたき事ありて、罷り越しましてございます」
 
その報せには次のように書いてありました。
『桜ヶ池の上に風も吹かないのに突然龍巻が起こり、雨も降らないのに大洪水を起こし、池の中の塵芥を全て周辺に払い上げてしまいました。周辺の住人は大いに驚いております』と。
 
「その日はいつだ!」と忠雅公が尋ねると、
「六月十三日の申の刻でございます」という答えでありました。
 
「不思議なこともあるものだ。その日、その時刻に霊体となられた皇円上人様が当家においでになられて、桜ヶ池を借り受けたいと仰られた。その日と同じ時刻ではないか。そうだったのか。皇円上人様はまさにあの直後に桜ヶ池に龍神としての修行のために、御入定なされたのだな」
 
ここまでの話は法然上人様の伝記の内、『源空上人私日記』と『九卷伝』に記されていることです  
 
開山上人様への御霊告
 
このことから皇円上人様が龍神となられて、桜ヶ池に修行のために御入定されたという伝説が始まったのです。今年の六月十三日は、その龍神入定から数えて八百五十四年目に当たります。
 
皇円上人様の龍神入定の後、皇円上人様の甥の子の弟子に当たる惠空上人様が、当山の前身にあたる浄光寺蓮華院を建立なされました。その場所こそ、皇円上人様のお母上様の一族とされる大野氏の館跡であり、現在の玉名市築地のこの蓮華院誕生寺なのです。以来蓮華院は、肥後の国一帯の巨刹、名刹として法燈を輝かせました。
 
国指定重要文化財の『東妙寺文書』によれば、鎌倉時代の永仁六年(一二九八年)肥後国浄光寺(蓮華院)が当時の朝廷から、寺域での乱暴狼藉や、みだりに生き物を殺す事を禁じる「殺生禁断の宣旨」という詔勅が下されたことが記されています。つまり、その当時の天皇陛下から直々のお墨付きを戴くほどの由緒のある大寺院だったのです。
 
その後、時代の変遷と共に、さしもの大寺院であった蓮華院も、ついに天正年間(戦国時代)に戦禍に巻き込まれて焼失し、後には小さな草堂を数ヶ所残すのみの廃寺となってしまいました。
 
以来三百五十年程の年月を経た昭和四年、先々代の川原是信大僧正様(開山上人様)が、
『我は今より七百六十年前、遠州桜ヶ池に菩薩行のため龍神入定せし皇円なり。今、心願成就せるをもって汝にその功徳を授く。よって今より蓮華院を再興し、衆生済度に当たれ』
との御霊告を受けられたことから、当山の中興への道が始まりました。
 
以来この御霊告だけを頼りに、現在の本堂周辺に仮本堂と庫裡(寺院の住居)が建てられ、最初は細々と、しかし力強く寺院としての歩みが始まったのであります。(続く)




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