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2022年06月09日大日乃光第2340号
皇円大菩薩様の伝説と蓮華院誕生寺の縁起(二)

【今回のあらまし】
 
来たる六月十三日、皇円大菩薩様の御遠忌(祥月御縁日)を前に、皇円大菩薩様の龍神入定の伝説と蓮華院中興の縁起について、二回に分けていま一度掲載し、信仰の原点を振り返ります。後半は、当山の三代の貫主様方による中興の歩みについてお伝え致します。
 
手探り状態から歩み始めた昭和初期の蓮華院再建
 
昭和四年十二月十日、皇円大菩薩様からの御霊告を受けられた開山上人様(是信大僧正様)は、早速蓮華院の中興に着手されました。しかしその時代は現代と違い、新しく寺院を建立して宗教法人として登録する事の出来ない時代でした。
 
鎌倉時代に肥後国筆頭の寺院として、八町八反(八・七ヘクタール)の境内に大伽藍が甍を連ね、時の朝廷から「殺生禁断」のお墨付きを戴くほどの名刹であった浄光寺蓮華院でした。
 
しかし戦国時代の戦禍に焼かれ、以降中断していた寺院を昭和になって再興することは、当時の行政から見れば、新しく寺院を建立する事と全く同じだったのです。そして、その頃は新しくお寺を認可する事がほとんどない時代だったのです。
 
そこで、玉名郡玉東町木葉で廃寺寸前となっていた真言宗醍醐派の世尊寺から名跡と御本尊様(薬師如来様=この佛様は現在曼荼羅堂にお祀りしてあります)を譲り受ける事で、ようやく寺院として登録することが出来ました。ですから戦前と戦後の一時期は、当寺は世尊寺蓮華院と称しておりました。
 
ところが在家から一念発起して僧侶となり、皇円大菩薩様との運命的な巡り遇いによって、衆生済度の浄行に専念しておられた開山上人様は、九州における醍醐派の役員の方々と考え方が合わなくなられたようです。
 
そこで師僧の佐賀東妙寺の岩根眞寛大僧正様に相談された結果、東妙寺の宗派である真言律宗(真言宗西大寺派)に転派されたのでした。
 
『西大寺過去帳』に記された蓮華院の歴代貫主の足跡
 
以来、後に中興第二世となられた真如大僧正様が副住職であられた頃、毎年十月に催される西大寺の「光明真言会」に出仕(僧侶が法要などに出席すること)されました。
そして西大寺に所蔵されている文化財の古文書『西大寺末寺帳』などによって、七百年以上昔から、浄光寺(蓮華院)は西大寺の末寺であった事が分かったのでした。
 
私も副住職だった頃、毎年この光明真言会に出仕しておりました。法要の際に長老(管長)猊下に次ぐ僧侶が、数百巻の過去帳の中から適宜に一巻を選び出して読み上げる役があり、ある時私がその任に当たりました。そしてその巻物を紐解いてみると「浄光寺 順西坊」という文字に目が止まりました。
 
この文書は『西大寺過去帳』第一巻で、西大寺の中興開山興正菩薩叡尊上人様や、鎌倉極楽寺開山の忍性菩薩様と同じ時代の浄光寺、つまり現在の蓮華院の貫主に当たる方が順西というお名前だったということなのです。その後調べた所によれば、十名の浄光寺(蓮華院)の歴代貫主の名が、西大寺の過去帳に記されている事が明らかになりました。
 
伝承から歴史的な確信となった皇円大菩薩様の御霊告
 
一方で先代真如大僧正様と、歴史学者の故田邉哲夫先生の研究によって、皇円大菩薩様と蓮華院の研究が飛躍的に進展しました。
 
この研究を始める前に、田邉先生は先代の友人でもあられたので、「川原君、この種の伝承は研究が進むにつれて、かえって疑わしくなるのが常だ。あまり研究を進めない方が良いかもしれないよ」と言われたそうです。
 
しかし先代は、開山上人様が皇円大菩薩様から受けられた御霊告に対する絶対的信頼から、
「私には絶対にそうならない自信があるから、是非研究に協力して欲しい」と答えられたそうです。
 
するとあに計らんや、文献調査や現地調査、そして発掘調査などが進むにつれて、御霊告の確かさがいよいよ明らかになっていったのでした。
 
先代亡き後の田邉先生は、「英照君、是信大僧正様の予言は全く狂いがなかった。霊感というのはすごいものだ」としみじみと語っておられました。
 
その田邉先生は晩年に、蓮華院を中心とする周辺一帯の発掘調査を指揮されました。現在の本堂は、まさにその場所に、かつて金堂(本堂)が建っていた地点でありました。さらに、現在五重塔が建っている場所からは、五重塔の基壇と考えられる十メートル四方の「基壇状遺構」が出土しました。また現在の大食堂の地下からも、中世寺院の遺構が発見されました。
 
そして当寺の北東部からは、何と約千二百年前の白鳳時代の瓦が出土したのです。これは、浄光寺(蓮華院)が建立される以前に建っていた建物の瓦で、九州最古の瓦でもあります。その建物は皇円大菩薩様のお母上様の一族である、大野一族の館跡の瓦と考えられています。
 
そして南大門の再建前に、玉名市教育委員会からの要請で試掘した時にも、鎌倉中期のものと思われる南大門の鬼瓦の一部が出土したのです。こうして、当初は定かではなかった御霊告の正しさが、考古学上も、文献学上も、確実に証明されたのです。
 
終生、衆生済度の浄行に邁進された開山上人様
 
少し話を戻します。開山上人様は皇円大菩薩様の御霊力と、自らの功徳力による衆生済度に邁進されながら、医療による救済をも実践するために、昭和三十三年に医療法人信愛会を創立し、現在の本院の境内に玉名病院を開設されました。宗教法人が医療法人を創ったのです。(現在は完全に独立しています。)
 
開山上人様の意を承けて、まだ三十代だった先代が県庁で医療法人の申請手続きをされましたが、当時は全国的にもあまり前例のない事でしたので、たいへんなご苦労をされたとも聞いております。
 
その十年後の昭和四十三年は、皇円大菩薩様の御入定から八百年の、記念すべき年でありました。この記念すべき年に向けて、昭和四十一年に現在の本堂が建立され、四十二年には現在の山門と鐘楼堂なども建立されました。
 
こうして一応の寺院再興を果たされた後、いよいよ御入定八百年の記念事業として、奥之院の開創に着手されたのです。その目的は、皇円大菩薩様の功徳、お慈悲を、より広く一般の人々にも広めたい、という念願からでありました。
 
しかし奥之院の落慶を一年後に控えた昭和五十二年十二月二十日、後事を真如大僧正様に託して、開山上人様は安祥として御入定になられたのでした。
 
御入定された年の大祭では、こんな話をされました。「全国の信者の皆さんの奉納で、開山堂が建立される事になりました。私は近い将来、このお堂に魂を留め、孫子の代まで、永遠に皇円大菩薩様と共に皆さんをお守りする事を約束します」と、確約されたのでした。
 
より一層、佛法興隆・寺院再興に力を尽くされた真如大僧正様
 

中興第二世を拝命された真如大僧正様は、皇円大菩薩様の絶大なる御霊力に加えて、開山上人様の御加護と心願力を戴かれて、わずか十一ヶ月で奥之院を落成し、引き続き諸々の大工事を推進されました。完成まで十年を要した奥之院の大庭園、大型バスが離合できる約一・五キロの参道、八百台収容可能な大駐車場、相撲道場、大佛様、護摩堂と、休むことのない大工事の連続でした。
 
そして昭和最後の年、玉名病院の移転に伴って、本院の庫裡(信者会館)を全面改築されると共に、本院に純木造の五重塔の建立を発願されたのです。加えて平成に入ってからは霊園(蓮華院御廟)の開創と、まさに大工事に次ぐ大工事に明け暮れた、中興第二世、真如大僧正様の十四年半でありました。
 
御入定八百五十年の節目に中興を成満された貫主大僧正様
 
私の代になってからは、平成九年に五重塔を落成し、平成二十三年には大四天王像を祀る南大門を再建しました。そして平成三十年には、皇円大菩薩様の御入定八百五十年を記念して、五智如来を祀る多宝塔が落慶し、蓮華院の中興が、ここに成し遂げられたのです。
 
このような歴史的な中興の時代に、当山の貫主を拝命して、願いと志を引き継ぐことの大切さと有難さを、つくづく実感致しております。
 
全国の信者の皆様も、蓮華院の信仰上最も大切な、皇円大菩薩様御入定の六月十三日を、ぜひ次の世代に信仰を引き継ぐ良い記念日にして頂きたいと願っております。
 
コロナ禍終息後、全国からの信者の皆さん方がお子さんやお孫さんと共に、または友人知人をいざなって、以前と同じように元気なお姿と輝かしく晴れやかなお顔を見せて、六月大祭にお参り頂きますよう、切に念じております。
 
全国の信者の皆さんの平穏と幸福を日々祈りつつ、来たる六月十三日には国内外の平和とコロナ禍の一日も早い終息を、皆さんと一緒に念じましょう。皆さんのお顔を見るのを楽しみに致しております。合掌




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