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2022年07月05日大日乃光第2341号
「報恩感謝の祈りを込めた 六月大祭の願文を読み解く」

報恩感謝の祈りを込めた 六月大祭の願文を読み解く
 
時代の変革を超え行く信仰を
 
信者の皆さん、六月大祭にようこそお参りでした。そしてライブ配信で参列している全国の信者の皆さん、ようこそお参りでした。
 
令和二年以来疫病への対応で、この様な状態が続いています。来年の大祭には、この十倍以上の方々がお参り頂けると確信致しております。本来なら昨晩、龍火くだりを執行し、そして今日の御遠忌法要を迎えた所であります。
 
今、良い雨が降っています。雨が降らなければ田植えも出来ません。農作業の為にはこれも大事な天候であります。私の近しい知り合いが稲作に取り組んでいます。裸足でぬかるむ泥に入ると指の間からぬるぬるっと土が入ります。その人は、それを「頂きものだ、有難い」と感じるそうです。
 
今は殆どが機械による農作業ですので、自らの手足で田植えをする事は極端に少なくなっています。そういう中に在って自ら稲を植えて草取りをし、そして脱穀をしたり色々世話をしたりと、その人は一つの生き方として農作業を続けておられるのです。
 
しかしそういう人が今、少しずつ増えつつあるそうです。特に若い世代の間で、そういう大地に根を下ろした生き方にチャレンジしようとする人が増えてきています。
 
他方で今、東京の人口が減ってきているそうです。以前のような一極集中の傾向が鈍り、遠隔地からリモートで仕事が出来るようになって、居住地による職業の格差が減少し、地方に移り住む事が出来るようになってきました。まだ完全ではありませんが、そういう時代に入って来たという事です。
 
そういう中に於いて、信仰生活、また家庭生活の持つ意味は、逆にますます大きくなっているように感じます。この大きな変革の時代にあって、それでも決して変わってはならないものであります。
 
そして今、厳然と変わらずに益々威光を発し続けて頂いているお方が、私の後ろにおわします。こういう形で佛様を背負って御法話をする機会は非常に有難く、より深い話をしなければと責任も感じております。
 
願文に込めた真言密教の世界観
 
さて、先程の法要で奏上した願文ですが、常套句には手を加える事がないのですが、毎年少しずつ変更する所もあります。
 
この八百五十四年の大祭に当たり、一体どういう事を言上したのかをお話ししてみたいと思います。その後、皇円大菩薩様がどういうお方なのか、どういう願いをお持ちになり、日々どういう事をなされているのか、という話に進めて行きたいと思います。
 
皇円大菩薩八百五十四年御遠忌大法要、願文の事。謹み敬って…丁寧に丁寧に頭を下げて申し上げますと。
 
真言宗の教主である大日如来。そして大日如来を囲む金剛界・胎蔵界の諸佛・諸菩薩、両部界会諸尊聖衆…曼荼羅に描かれている無限の多くの佛様達。総じては尽空法界一切三宝…この宇宙全体を取り巻いて日々活動して頂いている全ての佛法僧の三宝。殊には当山の御本尊皇円大菩薩様。更には当山の先師尊霊…先代先々代、そして戦禍により中断しましたが七百年前から四百年前までこのお寺を営んでこられた方々。そして各時代に、それぞれ役割を果たして頂いた開祖の方、そして祖師の方々、そういう方々に申し上げますと。
 
更には当山の鎮守であります乙護法善神…乙護法善神とは蓮華院の鎮守神なのです。古いお寺、特に真言宗の場合、必ずお寺とお宮がセットになっています。高野山にも狩場明神と丹生都比女という二人の神様がおわします。今でも伽藍の中にお祀りされていて、毎月一回、必ず高野山全山の住職が揃って法要致します。
 
そしてさらには天神地祇…日本全国数多ある氏神様達。大きな神社から、各村々にある小さな祠の氏神様まで、それは全て私達の地域における古いご先祖様でもあるわけです。
この様に大祭に当たり、神様佛様方に申し上げますと、まず宣言するのです。
 
この様に真言宗では佛教だけでなく、神様にもきっちり御挨拶をします。これは日本人独特な形態です。この形を最初に作りあげられたのは、私は弘法大師であると思っています。
昔々の多くの先人達が古来より日本におわす神々を佛の化身に見立て、東照大権現などの権現様と呼びました。そういう信仰の形を作ったのは、実は真言密教の世界観なのです。
 
宇宙に遍満する諸佛諸菩薩。それが変化して日本では様々な神になっていると、そういう感覚です。例えば大日如来は日本では天照大御神という風に、佛教の佛様が実は日本では長年その地域におわす神様として祀られて来たという、神佛一体の信仰でありました。
 
先程子供の詩のコンクールの話がありましたが、お父さんとお母さんが仲よく手を携えて支え合い、子供を育てていくように、日本人は神様と佛様によって守られてきた国であるという事を、ここできっちりと申し上げておきます。
 
平安貴族が遺した龍神伝説
 
この次が皇円大菩薩様についての奏上になります。皇円大菩薩様は今から八百五十四年前のまさにこの日、六月十三日に静岡県の桜ヶ池に龍神入定なさいました。この事を伝える平安貴族の日記が残されています。
 
その貴族は花山院忠雅公という方です。藤原北家の一門であり、太政大臣に任ぜられましたから、現代の総理大臣に当たる人物です。その方の日記に六月十三日と、その数日後の出来事が記されているのです。
 
その日の早朝、比叡山に於いて皇円上人がお隠れになったという報せが入ります。太政大臣ですから、様々な大事な情報が入って来ます。その中に比叡山で沢山の弟子を訓育されていた肥後阿闍梨、皇円上人が亡くなられたと。忠雅公が悲嘆に暮れていたその日の午後、旅の僧がその館を訪ねて来ます。
 
「我は皇円と申す者なり。当家の主に是非拝顔を賜りたい」と。「承知仕った」と門番が伝えに行きます。「何、皇円とな?そやつは正に売僧!嘘を語る坊主に違いない、ひったてい!」と忠雅公。ところが顔を合わせてみればまさに生前、御存命の時何度もお会いした皇円上人その人であった。「あなたが亡くなったというのはあれは嘘だったのですか?」と。「さにあらず。今日ここにまかりこしたのは、龍に身を変えて私が修行に入りたいと思っている桜ヶ池は、卿の所領であります。領主に断りもなく使わせて頂くのはあまりに申し訳なく、その事をお願いにまかりこしました」と。「そなたのお心のままに」と忠雅公。どうか思いのままにお使い下さいと仰いました。
と、見ぬ間に上人の姿消えにけりと。
 
その数日後、桜ヶ池のある遠州から火急の用件を知らせる一報が入ります。それによれば、
「桜ヶ池に雨降らずして俄かに洪水出で、風吹かずして忽ち大波立ちて、池の中の塵、悉く払い上ぐ、諸人耳目を驚かす」とあります。
 
風も吹かずに突然龍巻きが起こり、雨が降ったわけでもないのに、桜ヶ池の水が大増水を起こして池の中の塵芥を悉く外に払い出してしまったという事です。その様子に多くの人々が大変驚いたと。
 
「その日時を考うるに、かの皇円阿闍梨が領家へ参りて、この池を申し請いてまかり出でたる日時なり」と。その日時を考えると、先に皇円上人が花山院家にお越しになって、どうか桜ヶ池を貸してくださいと言われた、まさにその日時に天変地異が起きたという事です。
これを機に、皇円上人が龍神になられて桜ヶ池に入られたという伝説が始まったのです。
 
大慈大悲の御誓願とは
 
この御修行の池、桜ヶ池を探し当てられたのが弟子の法然上人で、その後、浄土宗を開宗されます。その数年後に師であった皇円上人に是非お会いしてご報告をしたいと、遥々桜ヶ池まで訪ねて行かれます。この本堂の十番目の絵伝にあるように、日頃の御修行のお姿を是非拝ませてくださいと仰られると、龍になられたお姿が忽然と現れた。御修行の形見を是非頂きたいと申し出る法然上人に、龍の鱗を与えられたと伝わっています。
 
その鱗は現在、すぐ近くにある應聲教院というお寺に今でもお祀りしてあります。私も間近に拝した事が有り、非常に有難かった。
 
その時に皇円上人が何と仰られたかと言えば、「今、私が修行しているのは末世衆生の為である。多くの人々の悩み苦しみを、社会を救うために、永遠の命を留める龍に身を変えて修行をしている。その願いが成就した暁には必ずまたこの世に現れよう」と法然上人に仰られたのです。この事は『法然上人伝』に書いてあります。
 
その後、比叡山が焼き討ちに遭うなどして、残念ながらそれ以外の史料は定かではありません。法然上人伝と花山院忠雅公の日記によって、辛うじて裏付けられているわけです。
 
その後、皇円上人の実弟である肥後守資隆公の孫、慈胤の弟子である惠空上人が皇円上人生誕の地に浄光寺蓮華院を建立されたのです。その地はまさに皇円上人のお母様の大野一族の館跡であったとも言われています。
 
古代に遡る寺院建立の由緒
 
今から三十数年前の発掘調査で、旧蓮華院境内の東北隅から千二百年前の瓦が出土しました。千二百年前と言えば、奈良時代の白鳳時代に当たります。白鳳時代の瓦となると、九州では最も古く、合わせて三ヶ所から出土しています。一ヶ所目が熊本玉名の立願寺跡と蓮華院跡。そして福岡の大宰府安楽寺、今の太宰府天満宮。最後の一つが大分県の宇佐八幡宮です。当時は宇佐八幡宮と大宰府と玉名地域が九州における三大先進地域であったのです。
 
それより少し遡り、奈良時代には在来線の玉名駅付近が大湊と呼ばれ、その港から真っ直ぐ北に玉名の郡役所へと延びる舗装された道がありました。現在の玉名高校の西の脇を通る道がその名残です。
 
当時の玉名を支配していたのが日置一族でした。日置氏を祭る疋野神社は、九州でも最も古い神社の一つです。当時はその神社の傍に玉名の行政の中心がありました。そこに至るのが当時の南北の幹線道路でした。
 
その道路に対し、今の築地立願寺線とほぼ重なる形で一本だけ、ここの裏を通ってすーっと道が横に延びていました。それはここに大野一族の館があったからでした。その大野一族の館跡から白鳳時代の瓦が出てきたのです。
 
大野一族は、日置一族が朝廷の命により中央から派遣されて玉名に入って来る前に、この地域を支配していた在地の豪族だったのです。まさに皇円大菩薩様のお母様の御先祖様が、この地域一帯を支配していたのです。
 
日置一族が玉名入りした時、大野一族は素直に従いました。これは出雲大社に伝わる国譲りの神話のように、戦う事の無い平和な政権移譲だったそうです。そこで日置氏は玉名の豪族大野氏を大事にして、その館に至る直通道路が作られ、また九州最古の瓦も出土する所以となったのです。
 
その後、東妙寺文書によれば、鎌倉時代に朝廷より殺生禁断の宣旨を賜る大伽藍として浄光寺(蓮華院)の名が記されています。
 
中興への起点となった昭和四年
 
この様にまさに皇円上人御誕生の地にお寺が建立されて、歴代先師により様々な祈願祈祷が続けられて来たわけですが、戦国時代に豪族同士の戦禍により殆ど焼失します。それでも小さなお堂が三つ四つ残りました。その内の一つを綺麗にしたのが南大門に至る参道の途中にある釈迦堂というお堂です。
 
そして私ははっきりと憶えていますが、ここ(本堂の傍)にも小さなお堂があったのです。
そして先程の鎮守社に当たる乙護法善神を祀る、「乙宮さん」と呼ばれる小さな社が今も境内の北西に残されています。
 
そういう中で、まさに皇円大菩薩様に招き寄せられるようにして、開山上人様(是信大僧正様)が、この地に辿り着かれたのが昭和四年の十二月の事でした。まさにそこから現在に至る皇円大菩薩様信仰と、蓮華院中興の道が始まるのでした。(続)




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