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2023年10月19日大日乃光第2384号
佛意と大地の功徳で建立された奥之院(奥之院開創秘話 その二) 

皆さん、今日はようこそお参りでした。
 
来たる奥之院大祭では四年ぶりに大相撲の力士をお迎えします。八角部屋の力士が柴燈大護摩祈祷にご参列され、三時には子供達にかかり稽古をして頂きます。こうして一歩一歩、コロナ前の祭りに戻りつつある事を喜ばしく思っております。
 
戦国時代の戦禍により一時廃絶していた蓮華院
 
お盆前の八月十一日号で、蓮華院が鎌倉時代に創建されてからの約八百年、三十二世代分のご先祖様の総数を数えた事があります。
 
ところが今から四百年ほど前の天正十年頃に、蓮華院が九州の戦国大名の争いに巻き込まれ、廃絶した事が伝わっています。五重塔や南大門、多宝塔などの建立予定地を発掘調査する度に、戦国時代と推定される地層から、戦乱の跡を思わせる遺構が発掘されています。
 
天下の霊場高野山では、本年弘法大師御誕生千二百五十年記念大法会が営まれました。ところがその高野山でさえ、千二百年の歴史の中で、何度も廃絶の危機があったと伝わっています。
 
これは余談ですが、私が高野山で学んでいた頃、「高野の昼寝」という言葉がありました。これは、高野山には「土徳」があるので、昼寝をしていても意義があるという意味です。弘法大師様以来の先徳の方々が修行と学問を重ねて来られた場所なので、その土地そのものに功徳があるという意味です。
 
再興と全国布教に挺身された開山上人様
 
さて、昭和四年十二月十日、開山上人様が皇円大菩薩様からの「御霊告」を授けられてから、わずか三ヶ月後の昭和五年三月二十一日には仮本堂の落成式が修されました。御霊告の実現に向けて、全てをさしおいて一心に、当山の中興に邁進なされた事が偲ばれます。
 
これも皇円大菩薩様の御霊力と、この土地そのものにこもる功徳力、そして開山上人様の信心力のなせる業と言うべきでしょう。
 
開山上人様は一軒の檀家もなく、一人の信者もいないお寺として出発されてから、中興への道を一歩一歩着実に歩んで行かれました。戦前の事はほとんど伺っておりませんが、戦後はいち早く、先の大戦で亡くなられた戦没者の供養を専一に祈りながら、そのための新たなお寺を建立すべく、九州一円への募金活動を開始されました。
 
二人の息子、つまり私の父(先代真如大僧正様)と伯父(元玉名市長の川原弘海氏)の二人がそれぞれ二手に分かれての募金活動でした。しかし、時代は未だ戦後間もない混乱期で、人々の心や生活には余裕がなく、戦没者の供養までは思い至らなかったのでしょう。ついに戦没者供養のためのお寺の建立は断念せざるを得ませんでした。
 
しかし、その代わりに九州各地に信者の方々が生まれたのは予想外の出来事でした。断腸の思いで新寺建立を断念された開山上人様に、私の母方の祖父が、「あなたの法力を、九州だけでなく全国の悩める人々に広めるべきです」と助言されました。
 
開山上人様は改めて虚心に皇円大菩薩様にお伺いを立てられて、全国布教の行脚に出られたのでした。昭和三十年代の事です。以来十年間、開山上人様は全国への伝道に挺身されました。それから十数年後には信者さんのいない県が無くなったほどでした。
 
八百年大遠忌法要を機に更なるご縁の広がりを
 
現在の本院の本堂が建ったのが昭和四十一年の事で、山門と鐘楼堂が翌四十二年に相次いで竣工しました。
 
そして今から五十五年前の昭和四十三年六月十三日、「皇円大菩薩様御入定八百年大遠忌法要」が厳修されました。この大法要には、全国から信者さん方がお参りされました。
 
その時の様子を、当時タクシー会社を経営されていた母方の叔父が、「玉名温泉(本院まで約二キロ)に泊まられた信者の皆さんは、まだタクシーの台数が少なくて、ほとんどの方が歩いてお参りされたので、玉名温泉から本院まで信者さんの列が繋がったほどでした」と話して下さったものです。
 
この八百年大遠忌法要を機に、開山上人様はもっと広く、もっと多くの人々に皇円大菩薩様の功徳を知って頂くために、奥之院の建立を発願されたのでした。
 
以来、本院の北約四キロにある小岱山中腹に新たな土地を求め、早くも昭和四十七年には奥之院の最も高台となる場所(現在の大佛様の御座所)に八角堂様式の御霊廟を建立されたのです。
 
この御霊廟は、三十八年前の昭和六十年八月末に台風によって屋根が飛び倒壊しました。後に中興二世の真如大僧正様によって、現在の大佛姿の皇円大菩薩像が発願され、平成元年の秋の大祭で開眼法要を執り行なわれたのです。
 
土砂災害が招いた奥之院開創の危機
 
昭和四十八年、四十九年と、開山上人様ご自身が指揮監督されながら、奥之院の全境内六十ヘクタールの内の、約十ヘクタールの内境内が造成されました。五つの峯を削り、谷を埋める大工事でした。
 
開山上人様の御霊力に基づいて、奥之院では土石流を起こさない工夫が随所に施されましたが、生憎他の地域での林道工事や蜜柑山造成などが重なっていたため、不幸にも下流域に土砂災害が起きてしまったのでした。
 
その頃は、国土の利用計画や自然保護に関する法律が立て続けに成立した時期でもありました。
 
そのような時代背景もあって、奥之院の建設工事に熊本県からストップがかかりました。
「今後、奥之院に建物を造る際には熊本県と玉名市・荒尾市・岱明町と蓮華院とで協定書を作成しなければならない」という事になったのです。
 
そのための最大の条件が、「奥之院の境内から流れ出る川の下流域の全住民から、奥之院の伽藍建設への承諾書を取るべし」という一項目でありました。これは、「今後奥之院の建設を続けてはならない」と言われるに等しい事だったです。奥之院の開創に当たっての最大のピンチでした。
 
佛意に護られた伽藍建設
 
ここで開山上人様の最後のお弟子であられた故西田快玄師の獅子奮迅の働きで、先の条件を奇跡的にクリアする事が出来たのでした。
 
西田師と私が開山上人様にそのご報告に上がったのは、昭和五十一年五月十九日の午後の事でした。その時、開山上人様の目にうっすらと嬉し涙が光っていたのを昨日の事のように思い起こします。
 
先の協定書が正式に完成したのが、同年七月十九日。そしていよいよ大梵鐘が奥之院に運ばれたのが八月十九日でした。
 
なぜこのように細かく日付を憶えているのかと言えば、その年の五月十九日が私の二十四歳の誕生日であった事と、私の中にある悩みがあった中で、十九日に記念すべき事が次々に何度も起きたからなのです。
 
開山上人様にとって、八十二年のご生涯の総決算に当たるのが、まさにこの奥之院の開創であった事を思えば、この時の困難を乗り越えられた喜びはいかばかりであったことでしょう。
 
昭和五十一年八月十九日に、大梵鐘が奥之院に納まってから、いよいよ伽藍の建築が開始され、翌五十二年五月には鐘楼堂が竣工、十月には仁王門が竣工、そして十一月十三日には大梵鐘の打ち初め式が、前号でお伝えした奥之院落慶大法要の一年前に厳修されました。
 
大梵鐘の記録映画『真宝誕生』を観れば、その頃の信者の皆さんの満面の笑顔が印象的に映し出されています。しかし、その頃すでに開山上人様は御入定の準備にかかっておられたのでした。
 
霊山の小岱山が甦る
 
大梵鐘の打ち初め式は、その直後に法嗣として開山上人様の法灯を受け継がれた先代、真如大僧正様によって執行されました。当時は、本堂となる五重御堂がまだ鉄骨だけの姿でした。
 
天下の霊山として名高い比叡山も高野山も、開創者の伝教大師様、弘法大師様の在世中にはその中心的な建物は完成していません。東大寺の大佛殿も、行基菩薩様が遷化された後に落慶しています。ここには不思議な因縁と深い佛意が感じられます。
 
大梵鐘の打ち初め式が厳修されて以来、私はまず自分自身で三年間、毎朝大梵鐘を撞かせて頂きました。一打ごとに五体投地の礼拝を三度繰り返しながら、十三打撞きました。
 
以来、これまで四十六年間、大梵鐘は一日も休む事なく佛音を響かせ続けてまいりました。
気象条件によっては、その佛音は有明海を越えて、三十キロ彼方の対岸、長崎県の島原半島まで伝わって行きます。奥之院の全境内はもとより、小岱山の山々や谷、草花や木々は毎日この鐘の音によって浄められていることでしょう。
 
小岱山は、月輪大師俊 律師(一一六六~一二二七年/皇室の菩提寺である京都の泉涌寺の中興開山)が、鎌倉時代に山頂に正法寺を建立された事が契機となって、霊山としての信仰を集めてきました。今でも山中の随所に観音岳、明星岳、仁王ヶ滝などの名が残っています。
また密教と山岳信仰が融合した修験道の名残りも多く残されています。
 
奥之院大祭で、修験の作法である柴燈大護摩祈祷が修されるのも、小岱山のこのような歴史に因んでの事なのです。
 
このように、当山の奥之院が、この地に建立されたのも単なる偶然ではなく、大いなるみ佛様のお計らいの中にあっての事であると確信致しております。
 
来たる十一月三日の大祭には、全国の信者の皆さんが、ご家族や友人の皆さんと共に、一人でも多くお参りされる事を弟子や職員の皆と共に、心よりお待ち致しております。合掌




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